「君は、突然自殺をしろと言われて従えますか?
そう、自殺です。
青子はね、近いことを求められたのです、十五の時に。
彼女がそれまで積み重ねてきた努力も希望も、過去も未来もすべて捨てること。今日からおまえは違う生き物として生きろ、とね。
どうです? それは自己の抹消、未来の死と同じだと思いませんか?」
(『魔法使いの夜』TYPE-MOON/一部省略)
印象は白と黒
【 0 】hide/白
移動の最中は雨に降られることが多かった。
村育ちの私としては場違いに感じる場所へ行くというだけでも重荷なのに、いくらアネキウスの恵みといえど頻繁に過ぎて苦痛を覚える。鹿車の車輪が泥を跳ね上げるし休憩に外へ出ることもかなわない。だが今日は違った。あれが城だと同行のローニカ――神に選ばれた貴方様が一侍従に敬称を付ける必要はないと頑ななので呼び捨てだ――が晴れの虚空を指さして言って、私は改めて嘆息する。道中に為された説明と合わせて酷く嫌な気持ちで。
晴れに浮かぶ石造りの城は、あばら小屋に毛が生えたような家に住んでいた身からすると過剰に堅牢だった。必要性のない二人目。幼い頃から王たれと教育を受けた少年と、田舎暮らしで本の一つも読めない私。
雨の気配一つ無い空の下、私は城に足を踏み入れた。聞こえても構わないというように、しかし密やかに見張りの衛士がこちらを寸評するが、ローニカは首を横に振った。
「貴方様は神に選ばれたお方、堂々としておればそれで良いのです」
内心ぼやいた。要りもしない二人目を気まぐれに作って今更引っ張り出してきた神の真意を問いたいところだな、と。
鹿車を降りると、階段上に人影が見えた。男性だ。短い髪を軽く撫でつけ、用途の不明な薄布を右肩から下げる彼は、繊細な顔立ちにそぐわない表情を浮かべている。似た色を、私は村で見たことがある。受けた印象ままの言葉が投げられた。可哀想に、と。
「今更出てきても何の益もなかろうに。誰にとっても不幸なだけだ」
普段なら流せもしただろう言い様。ただ、私は人生最高の不機嫌にここ最近包まれており、むべなるかな、明確な感情が彼に向けられることになった。真正面から投げつける気概は嫌いと言い切れないが、思う。彼の言動は許容出来ない。というかはっきり気にくわない。自覚しているとしても、改めて指摘されると勘に障るのが人情だろう。
そもそも。
「可哀想に。額に印が刻まれたばかりに」
ああ全く、村で見覚えある表情のはずだ。
ある種本気の憐憫と理屈なしの敵意。見慣れていて、向けられ慣れていて、だから通常対応を取ろうと決めた。決めたのに、早速決意が出鼻をくじかれた。
「他の誰もがお前の到着を喜ばないだろうが、私だけはお前を歓迎してやるよ」
理解の範疇を超えた言動で、一瞬空白に支配される。おかげで去りゆく彼の背に問いかけられない。色々尋ねたいこともあったのだが。眉間の強ばりへ指を当てる私に、衛士の時同様ローニカは気にする必要はないと言った。また、結局名乗らないでいなくなった彼についても教えてくれた。現王リリアノ唯一の令息、タナッセ・ランテ=ヨアマキス。印を持たず、継承権のない王子。一体何を持ってタナッセは私を歓迎するなどと口にしたのか。
【 1 】stranger/緑
柔らかく身体を沈み込ませる寝台は夢を見せる。嫌な夢を。
頭一つ抜けた高さの神殿と、比べて控えめな二階立ての家と、平屋の木造建築。それらが統一性なく立ち並んでいる緑の村は、私が数週間前まで住んでいた場所と相違なく。
つまり、相も変わらず私は大人達からひそやかに言葉を投げつけられていた。
名も知れぬ父親の怪しさだとか、母親が生死すら口にしない理由だとか、およそ娯楽というものが存在せず搾取されるだけの鄙びた村では愉しく語られている。私自身へ話が流れることは少ない。大抵は父母どちらか越しの話題だ。
同年代の子供達は、昔こそ穴掘りに腐心したり親の受け売りを必死に用いて楽しんでいたが、最近はほとんどそういうこともない。何故そうなったか心当たりはないでもなかった。……同時にさっぱり理解出来なかったが。
薄っぺらい同情を寄せてくる存在も一定数あったけれど、いっそ惨めでいらない憐憫の情だ。まだ昔の子供連中同様真正面から切り込んでくれる方が反応のしようもある。せめて泣くぐらいすれば可愛げもあると言われても。無意味に過ぎる。
夢は大雑把に数週間前までの状況を俯瞰すると、私を現実に放り投げた。
侍従のどちらが声を掛けてくるよりも前。アネキウスが光を強くし始める少し前、身体に染みついた習慣通りに半端な心地で目覚めてしまう。慣れない柔らかにもがくような気分で身体を起こして私は先月の判断を正しかったことと反芻した。
――――ふむ、本気か?
――――お主が王になること、万が一つにもありえぬ。
王になる気はあるかと問われ、えぇありますともと返し、言われた。そりゃそうだろう。私だってもし国王陛下が辺境の村に単身やってきて「これから村の一員になろうと考えている」と抜かしたら同じ応対になる。真っ当な感性だ。そして私も夢――いやふわふわ緩い、甘い考えで宣言したものじゃない。まだ感情は事実を退けたくて堪らない様子だが、余分な二人目であっても選定印が額に貼り付いている以上、最早外での生活は望めないと理性は気付いている。どんな利用をされるか知れないのだ。
ならせめて、不安定な足元を自分で盤石にしていく。知り合い一人存在しない湖の真ん中で、まずは無理矢理にでも存在を示していく。結果として王になれなくとも、まるで問題ない――対抗馬として目立ちすぎると排除すべき邪魔者扱いになるのは明白だし。
その日中、散歩途中で遭ってしまったタナッセに奇しくも嗤われた。馬鹿な二人目の噂は広まっているらしく、少しの安堵が胸をよぎる。だがしかし。
「うわ言を抜かす前に、まずは自分の顔を湖に映して見てくるがいいさ。そのまま沈んでもらっても、一向に構わないぞ」
先月、衣装部屋でかち合った時も思ったけれど。
正直こいつ、すごくイヤ。
イヤさにとうとう我慢が出来なくなって、手を挙げたのは月末の、やはり衣装部屋で、だった。厭味と皮肉の中身自体は今までに比べればもっとも軽いものと言えた。田舎くさいなんて重々承知で、だから今日の舞踏会は参加を控えたのだから。
ただ、積み重なった腹立ちが少しの衝撃で弾けてしまって。
「…………」
あ、と我に帰ったが時既に遅し。存外しなった手が乾いた音を右の頬で打ち鳴らしていた。布手袋に覆われた私のてのひらが立てる音はくぐもっていたが、浮かんでいた嘲笑を頬からかき消し、タナッセは冷えた視線と数呼吸分の沈黙を向けてくる。やがて低い声音と共に叩き返された。
咄嗟に反発しかけた私へ、呆れしかない低さが覆い被さってくる。
「……ほら、お前は黙るのか?」
言われなくても知っている。
昔は。本当の本当に昔は、村で同じことをしたしされた。
私も――僕も彼らも黙らなかった。
喉元までせり上がるそれを堪え、今度は私が沈黙を作った。タナッセはそんな私など見えてもいないように一方的に言いたいことだけ言い放つ。頬を押さえたまま、私は踵を返した背中を見つめていた。
【 2 】sore/青
見たくない夢、見てしまった夢。
いずれにしろ不愉快には違いない。
今日もまた、既に遠い過去を見る。
父母を通して判断される私は、僕は、しかしどちらをも嫌ってはいなかった。父については好悪を抱ける材料がなかった。母は――。
僕と母は毎日の農作業を初めとした日々の糧を得る仕事と併せて非常に疲れていた。疲れ切っていたのだ。僕と母は、互いに互いを嫌ってはいなかった。しかしとにかく余裕がなかったものだから、大半の記憶は気まずい沈黙と破裂した苛立ちを何某かの物品に乗せた酷い代物になる。時折あるあたたかい記憶は、貴重すぎるからすり切れないよう普段はしまってあるのだが――一つだけ、例外があった。暇があれば持ち出すそれは、最新のあたたかな、つめたいおもいで。庇われた己と、庇った彼女の、不意の別れのおもいで。
そして僕は、付け入られることを恐れ、距離を取るために誰もが使わない「私」になった。それがまさか、……「私」が当たり前の場所に来るなんて、運命の皮肉としか形容しようもない。
今日も目を覚ます。寝台は変わらず埋もれそうに柔らかい。起き上がるのにすら苦心するほど。だから夜は好きじゃない。
身をよじるようにしながら起き上がり、私は両手を眼前に掲げる。外は仄かに明るい。農作業で荒れきっていた皮膚は、今少し、寝台の甘さと似合いの感触になり始めていた。
しかしまあ、なんというか。
こんな夢見てしまったのはどう考えても奴のせいだろう。おかげで幼稚な気分と感傷的な気分に浸らせて頂きましたとも。どう考えても昨日の朗誦は貴族様方に似合いの詩歌だったというのに、ほら、そんな状況が今や私にも微妙に、本当に微妙に、被ってしまっているのだから。
*
本当に試合にご出場なさるのですか、とローニカに言われた。
もちろん。しかも優勝する気しかない。そのために先月は訓練に明け暮れ、やはり田舎者見知らぬ場所で戸惑うばかりと噂されても我慢したし、参加している衛士の質を試合を見学して確かめもしたのだ。字面通りの真剣勝負なのが気がかりだが、昨年起きた問題を鑑みて衛士は更に手を抜いて来るだろう。あとは、
「――――ん、」
さっきから、むしろ武術の受講中にはずっと刺激されている記憶の最も辛い部分に負けないでいられるか、だ。背筋に怖気が走ってやまない。幻視するのは空から振る大きな銀色。いまだ生々しい記憶なのだと思い知らされる。
幸い、試合の決着はいずれも素早く付いた。数手を守り、切り込みのクセを確認した上でのフェイントは、的確に相手を打ち払う。むしろ次の出番までの待ち時間が長いくらい。とはいえ、もう少し長引いたら仮病でも使いかねなかったので、あっさり勝てて良かった。
優勝を讃えられてかなりご満悦の私は、言うまでもなく5日後の訪問なんか想像もしていなかった。
その日の私は、いつも通り4日分の疲れを癒すべく、中庭の散策をする気でいた。最近気に入りの過ごし方だ。が。休日用の簡易な衣服に着替え直したところで奴が来てしまったので、ついて行かざるを得なかった。奴――タナッセがわざわざ訪ねてくるなど、どんな異常事態だというのか。相も変わらず美形を台無しにする常時不機嫌そうな面持ちに内心ため息をつきながらその背を追う。
昼でも暗い中庭の一角で、タナッセは立ち止まる。人払いはしてあるというが、一体何を話そうというのか、まるで見当がつかなかった。大人しく耳を傾け待つ。
「さて、話というのは簡単だ」
私と組まないかと言って、「具体的に言うならば、私とお前が婚姻を結ぶということだ」
「…………」
思考が白飛びした。何もかもが途絶した私には自身の顔面の動きすら把握出来なかったけど、相当ヘンな顔をしたらしいのは彼の言葉で分かった。あんまりな表情だったのか、いくらかの説明が付随していく。
曰く、仲睦まじい夫婦になるというものではなく、互いの利点を用い合うだけの関係ということ。情はむしろ不要で、嫌い合っている故の申し出であるということ。
疑問点は山のようにある。私はヨアマキスという貴族の後ろ盾が手に入るが、……タナッセは私と組んだところで何を手中に出来るんだろう。怪しすぎる。絶対に裏がある。第一、私の王になりたい発言はハッタリの類というか、実際あんな苦しい地位を手に入れたい訳ではない。永久に城暮らしなだけでもう充分。でも、タナッセの謎しかない申し出の理由は気になった。
勉強、人付き合い、そういったものに手を抜けばいいだろう。まかり間違っても王様になりたくはない、向いていない、適正なんて皆無だ。
結論づけて私は彼と組むと伝える。
すると、言い出した割にタナッセは不快そうな顔で肯いた。
「……ふん、そうか、組むのか」
しかしまあ、ヴァイルのことを考えても、理解不能な持ちかけだ。流れる噂や時折見かける二人のやり取りは確かに不仲を指し示しているけど、人生のほぼ全てを一緒に過ごした人物を嫌いきるなんて出来るんだろうか。私には無理だった。……味方の振りして殺される、なんてオチだったら笑えないったらない。
それにしても、
「ならば、今後恥ずかしい真似は謹んでもらいたいものだ。名目上だけとはいえ、今のままでは伴侶と称するのすら恥ずかしいからな」
やっぱりムカつく。なるべく堪えて無視するように心がけているが、村人達の言葉と違って受け流しが全く難しい。一体どうしてと思うが、理由のアタリは付いている。父母越しでない真っ直ぐな嫌悪がほとんど初めてだから勝手が違いすぎるのだ。
「では、これからよろしく頼むよ、婚約者殿」
甘さなど欠片もない、甘いはずの続柄の響きを最後に、タナッセは一人先に帰って行く。
【 3 】gift/赤
二度目の、影響下における夢だった。
時系列としては過去。今日も今日とて村での記憶だ。
ただ、少しだけ趣が違った。私には今のところ理解が出来ないある男性について焦点が当たった、そんな夢。彼は私より二つ年上で、村長の孫だった。彼――残念ながら名前は覚えていない、彼に限らず村の住人の名は分からない――は、こう、なんというべきか、白眼視か憐憫かに別たれる村において、立ち位置が特殊だと言えたろう。特にどちらでもないのだ。タナッセのように真っ正面から厭味をぶつけてくるかというとまた違う。逆に優しいかというと、それもまた違う。僕はとにかくほとほと困った。
彼の篭りが明けてすぐ、僕は13だった時の話だ。無事に篭りを終えた彼は、どうやら祖父から贈り物をして貰ったらしく、村の広場で子供達にそれを声高に見せびらかしていた。僕は興味など引かれず、むしろ鬱陶しく感じながら遠巻きに脇を過ぎ行く。しかし哀しいかな、不思議と彼は僕を目敏く見つけるのだ。その時も彼は後ろから追ってきた。名を呼ばれたので振り返ると既に人気はなくなっており、毎度まいど誰かが居ると駄目なんだなと呆れて向かい合う。話の内容は極めて陳腐。ただの自慢話だった。僕があしらうような態度を取ると途端に黙りこくる。昔から変わり映えしない彼に掛ける言葉は最早なく、僕は背を向けた。が、彼は回り込むとこちらの手にご自慢の品物を押しつけ先に走り去っていったのだった。
万事がこの調子というか、村長の孫である以上他の誰かの前で同じ内容を僕と喋っても咎められないだろうに、何故か人気のない場所で話しかけてくる。この日は特に極まっていたが。自分への贈り物を他者に、それも僕に、私なんかに渡すなんて、篭りで精神面が疲労していたとしか考えつかない。
そもそも。女性になるとずっと言っていた彼ははて、どうして男性を選んだんだろう。
……なんだかよく分からないことばかりだ。
目覚めと同時に疲労を覚えていた。どうもリリアノ陛下が私へ王候補としての本腰を入れ始めたらしいことも一つあるが、言うまでもなく、オチのない夢を見てしまったのが大きい。やっぱり、あなた宛の手紙が届いているとかタナッセを探し回るとか、無駄な親切心の発露だったと思う。どうせ使い走りを嗤われるだろうと踏んでいたのに感謝されるとは。タナッセがまたよく分からなくなった。糸口もつかめない謎について延々思い巡らすのは不毛だ。
沈む身体を勢い付けて起こす。さあ、一日を始めよう。
だが、気合いを入れたのも虚しく、早めの朝食を食べに広間へ行くと、顔を合わせたくない人物と出くわした。回れ右なら間に合わない。人が多い時間帯なら紛れられたものを、奴は、タナッセは端の席から出入り口付近で立ち止まった私の方まで近づいてくる。……あんまり近づかれると、身長差が大きいせいで見上げ気味になってしまい、それがまた腹立たしい。いずれ見下ろしてやりたいところだ――あぁ、えぇと、万が一にも本当に結婚するんなら私が女性を選択するから、うん、無理なのかな。
「おや、何だ。これからは見世物の時間か」
なんとなく言われそうな内容は想像が付いた、というか分かりやすすぎる。「何か芸の一つでも身につけたのか? ほら、披露してみろ。うまくできたら餌をやるぞ」
お前から餌は要らないが、片付けないと落ち着いて食事も出来ないのでやってやろう。とは言っても、まさか詩歌の暗誦などでは芸と数えてもらえないだろうし……いや、暗誦はともかく、詩もともかく、歌はありかもしれない。文字も読めない農業従事者達は、作業の合間によく口伝の歌を紡いでいた。それらは洗練された品の良い音楽とはまるで異なる、打楽器中心の素朴な歌い上げだが、逆に、上手くすれば耳慣れぬ面白いものと認識されるだろう。
必要なのは、思い切り。
広間中の注目が集まる中、声一つで聞き応えを感じさせる、無謀さだ。
私は開き直ってお辞儀をする。歌詞を思い出すため視線は微かに下を向くが、片手を胸に当てることで「そういうもの」に見せてしまおう。
――果たして、降りたのは沈黙だった。それも広間中の。盛大に外したか、これは。率直に言って全速力で自室へ逃げ帰りたいが、無茶を放り投げてきたタナッセを置いて去るとあとが面倒そうだ。まあ、ひとまず始まりに頭を下げたので終わりも頭を下げる。
「……田舎くさい歌だな」
早速タナッセの寸評が始まった。先月辺りも、私の読んでいる本にケチをつけた挙句、この世に存在していなさそうな理想の女性像を言い捨て図書室を出て行ったが、どうしてこう、逐一人のやってる内容に首を突っ込んでくるのだろうか。嫌いだ好かないと言うのなら、全く放っておいて欲しい。本当イヤな奴だ。親を引き合いに出した陰口が城中に蔓延しているのは私も耳に届いて知っているし、捻れるのも納得するが、そういう部分は理解しきれない。
空きっ腹を埋めるのはまだ先になりそうと覚悟した時、騒ぎを聞きつけでもしたのか、ローニカが割り込んできた。居もしない来客をでっち上げることで連れ出してくれる気らしい。これ幸いと私は乗って広間を出ることにした。
「相変わらずタナッセ様はあのような調子ですか?」
廊下に出て、自室方向へ歩きながら侍従に尋ねられる。
出会い頭から変わる事なんてない。多分あれは永久不変だ。ローニカは眉をひそめながら続ける。それにしても、まことクレッセ様似でいらっしゃる、と。名前に聞き覚えがある。彼の噂で良く出てくる父親の名――というか、大抵はクレッセ評が先にあって、そこからタナッセを見ている印象を受けたので、よく覚えている。両親が揃っていても変わらないのかと、自然半目になったものだ。
「――リリアノ様には似ても似つかずにおられることです。言われなければ、親子とは誰も思いはしないでしょう」
ローニカは、クレッセに関しても、リリアノに関しても、噂と寸分違わぬ言い様を取ってタナッセを評価した。おかげで、私は言下に侍従の発言を否定して掛かってしまう。彼はどうにも納得いかない様子で更に否定の語を口にしたが、……私と顔を合わせると、話題を打ち切ってきた。打ち切る必要性を、表情から判じた、ということか。鏡石が手元にないことをここまで困った状況は初めてだ。ローニカの取って付けたような去り際の言葉にも、私は生返事だった。
*
今月の御前試合は、参加する気は愚か観覧する気もない。最初は見に行って姿を現すぐらいしようと思っていたが、些か話題になりすぎているのだ。もちろん私が。貴族の。ここで更にタナッセの裏工作が実を結んだ場合を加味すると、目立つ行為は避けたかった。
さて、では空いてしまった予定をどう埋めようか。贅沢な悩みを抱え歩いていると、ふと訓練所に目が行った。当然人っ子一人いない。――はずが、視界の端で動くものを見つけてしまったので、錯視か曲者か見極めたくなったのだ。そしてそれは、やはりあった。居た。「それ」もこちらに気付いたようで不快と怪訝を混ぜた顔を向けてくる。
「……何だ、何でおまえがいる。御前試合には行かないのか」
「それ」、まあタナッセなのだが、彼は背に何かを隠すなりいつになく刺々しい語気で私に言う。どうも、居られるだけで相当不都合らしい。厭味らしい厭味もなく、追い立てる言葉だけを繰り返し素っ気なく投げてくる。
……そこまでの態度を取られると逆に知りたくなる。取り敢えず私は去ったふりをして遠めの柱に隠れ、そこから様子を伺うことにした。でも、期待通りにはならなかった。彼が持っていたのはただの剣だったし、始めたのは人形への打ち込み。普通の鍛錬だ。実践でどうかはさておき、武器の取り回し自体は私とお仲間に見える。さすがに未分化と男性選択者の差なのか、重み自体に動きを振り回されそうな危なっかしさは感じられず、羨ましい。――あー……最後の感想は余計だった。
「ああー、タナッセ坊ちゃんねえ」
背後から掛かる突然の声に、自分でも驚くぐらい身を震わせ振り返ると、見知らぬ女性が同じように隠れていた。人なつこそうな、おそらく下働きだろう中年女性だ。訳知りそうな彼女に首を傾げると、
「いつもこの日はあれやってるのよ。人がいっぱいいるの、嫌なんだろうねえ」
やはり人の好さそうな影のない笑顔で手を振りながら話してくれる。あとにも言葉は続いたが、脳裏をよぎるのは城内で耳に入ってきた、城仕えや貴族達の噂だ。
――――あれはどう見ても、惰弱な父似よ。
――――手合わせに誘ってみれば、するりと逃げやがる。
まあその。
庇う気はないが、巨体の衛士が護衛として付いている以上、タナッセは嗜みとして以上の武芸など習得しなくてもいいはずだ。
リリアノ陛下やヴァイルという印持ち、学べば学んだだけ吸収出来る上王の教育を受けた二人が居るので、なまじっかな実力では確かに卑近な比較として劣るけれど、大きな手加減があるにせよ私だってほぼ同等に実力で御前試合で優勝可能だった。戦い護ることが本業の彼らと曲がりなりにでも並べたのなら、貴人としては十全だろう。
噂だ。そう、噂でこれも聞いた。タナッセは分化直後だったとはいえ男性を選んだのに、三つ下で未分化のヴァイルに負けたという。そんなに悔しかったのか。人目を避けて練習するほどに?
視線の先では険しい顔の彼が居る。当たり前だ。練習ではあるが真剣を用いている。
刃物は、厭だ。嫌い。大降りの銀色は、万一振りかぶりの際手から抜ければあらぬ方向へ飛んで事故を起こす。だからいつも、私は武術の時間おかしな方向にばかり気を張っている。
少なくとも、彼の視線は真剣だ。もし、悔しさの発露から来る鍛錬だとしても、私のような逃げ腰の訓練では決してなかった。
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