blue sky
彼女はしょっちゅう彼の従弟と鳥文をやりとりしている。
いくら離れて暮らしているとはいえそんなに話すことがあるのだろうかと彼などは疑問に思うが、彼女が言うにはまだまだ足りないくらいらしい。事実文屋を介し定期的にまとまった量の手紙も送り送られている。彼には受け止めきることの適わなかった従弟であるから、正直な話、そちらへ対する多少の嫉妬心もあるのかもしれなかったが、
「えへへ」
どこか幼い笑顔で手紙を受け取る彼女を見ると、
「おほん」
などとわざとらしい咳払いで彼を見るよう遠回しに要請してしまう辺り、従弟への嫉妬心も、これまた多少あるのだろう。
しかし彼女は何もかもお見通しだという主旨の言葉と共に、少々の大人げなさを発揮した彼をいつもいつも笑顔で見つめてくれる。その笑みは心底嬉しそうなもので、だが彼には理由が知れない。問えばはぐらかされてしまうのも毎回のことだが、さっぱり不快を抱けないのだから、全くどうしようもない。つまり今日も平和なのだ。その穏やかさにあてられてなのか、たまには従弟へ一筆書こうかと彼が言うと、彼女は微笑みそれがいいと手元の文へ目を落とす。開け放たれた窓の向こうは晴れ渡っていた。
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タイトルは『空へ…』(笠原弘子)から
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光に寄せて
寵愛者二人の篭りは互いに長いものだったが、特に長かったのは前年見いだされた今一人の寵愛者だった。つまり、今し方医士の診察を終え問題皆無の太鼓判を押された彼女のことである。またぞろ婚約者である元王息殿下は陰口を叩かれているだろう。その明白さに、彼女としては自身の不甲斐なさを感じてやまなかった。全く何が寵愛者だというのか、死線の一つや二つ余裕で越えさせろ、というのが先日まで彼であった彼女の言い分になる。下世話な噂を好み、低俗な尾ひれをつけたがるきらびやかな貴族たちがどんな盛り上がりを見せているかと思うと今から暗澹とした心地になった。
なったのだが。
居室の扉を開け、使いを出し真っ先に篭り明けを伝えた彼――タナッセが、いかにも落ち着かない様で応接室を行ったり来たりしている姿を見れば、思わず彼女の顔はほころんだ。タナッセはそんな彼女に駆け寄ると、言葉一つなく背に手を回す。抱きすくめる。急な動作に驚く彼女はらしからぬ行動を取った婚約者に抗議の声を上げるが、背中と腰近くに回された両腕にこもる力が強くなるだけだ。彼女は肩に押しつけられる顔に乗せた色を驚きから戸惑いに変え、改めて、
「タナッセ、あの、……心配かけてごめん」
言って、何も言えずにいる彼の背に手を回し返した。慣れない動作を行う彼女の腕はぎこちなさを描くが、確かに彼の背中をあたためる。抱き合う熱より互いのてのひらの熱がよりあたたかく感じられるのは、あの日を思い出すからだろうか、と小さく呟いた。聞きとがめたらしい彼は腕の力を緩め、ようやく彼女をと目を合わせた。表情は罪悪感に満ちており、力のこもった唇から漏れるのは自虐の言葉。あのことがなければもっと楽だったろうにとか、私のせいでとか。確かに苦しみは長かったが、彼女は自分の苦しさよりも、やはりタナッセがこうして辛そうにするほうがずっと嫌なものでしかないから、はっきりと言ってやることにした。
「耳貸して」
と腕の力を緩めさせ、彼女はつま先立ちする。恋人の耳に唇を寄せ、囁く。
私の好きな人をそんな風に悪く言うな、そもそもあの一件がなければ今こうしてあなたに抱きしめてもらえる関係になれなかったんだから、篭りの大変さなんて毛先ほども感じない、と。
「――――っ!」
吐息の言葉を聞き終えた彼は、瞬時に身を離し囁きの主を赤い顔でまじまじ見つめた。眉根は寄らず困惑に近い八の字を描き、口は横に広げられ、いかにも隙だらけな表情に、彼女は思わず笑みを零し、だいすき、と今度は自ら寄り添った。両手は赤面して固まったままの両肩にそれぞれ当てる。酷く控えめな接触は彼女自身先程の言葉が気恥ずかしかったためだ。
「お前は、本当に訳が分からない奴だ……」
けれどそう言って彼がまた強く抱きしめてくれるのだから、何もかもが全く問題ないと、安堵の息を深く深く、彼女は吐いた。
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タイトルはリトバスOSTから
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夜露の想い出
夜中にふと目が覚めると、タナッセは鼻をすすり上げる音を聞いた。いや、むしろその定期的な音こそが彼の眠りを妨げたものだろうことは明白だった。音は、腕の中からしている。よく見れば分化してなおちいさな身体を更に縮こまらせようとしている妻の頬に涙が流れており、だが、小さく名前を呼んでも反応がないので、いまだ夢の住人なのだろう。かなりの悪夢にしか思えず、タナッセは頼りない肩を強く揺すった。ひゃ、と短い悲鳴に似た驚きの声と共に彼女は目を覚ます。丸く見開いた瞳が、何、とぐずつく声で彼に問いかけるが、訊きたいのはむしろタナッセの方だった。自らの嗚咽に気付いた様子の彼女は一人納得の感嘆詞を零し、起こしてごめんなさいと顔をタナッセの胸へ押し当て、両の手は彼の夜着を握りしめる。昔、出会った頃のようには肩肘張った態度こそ取らなくなった彼女だが気の強さは健在で、あからさまな甘えを見せるなど珍しい。言いたいことはあったが、改めてその身体を抱き直し、沈黙することにした。……時折起きる、日常ではないが稀でもない夜だ。
微かな衣擦れだけが寝台の上でしばらく響く。他には何も耳に届かない。あるのは彼と彼女、互いの体温だけだ。
あのね、と舌足らずな甘い呼びかけがあったのは、どれ程時間が経ってからだろうか。母さんの夢、見た、と小さく続く。
「……そうか」
一言だけ返すのがタナッセにはやっとだった。涙を流すような母の夢がいかな内容であったか、いつもながら問うことは難しく感じる。母を亡くして間もない“彼”に、同情の本音も混ざっていたとはいえ、皮肉と嫌味を投げかけた記憶が駆け巡って仕方がない。加えて、彼は、そして彼女も、母親に関する話は一度もしたことがないので。
会った頃とはまるで違う、白く細く柔らかく、貴人の手になった指先が、タナッセの唇に触れた。潤みを帯びた視線が彼の瞳を捉えると、何も言わずに瞼を閉じる。顎を上げる。しばし迷って両の瞼に、その奥の瞳にあたたかみを落とすのは、彼らしい逃げの気持ちからではない。あたたかみはそこから頬をなぞり、泣き濡れる冷えた唇を包むと上と下へ割り開いて舌で上顎や歯列もやわやわと撫でた。惑う彼女の舌先も絡め取って、粘液質の音が静けさを破る。彼女からの拒絶はない。今はタナッセの胸元にある浅い握り拳が時々身を押しやる動きを取るが、拒絶ではないと彼は知っている。証拠に、触れ合う唇を一度離しても、あるのはもっと、とねだる甘く熱いかすれた響きと両脚をこすり合わせる控えめな衣擦れ。タナッセは彼の妻の、甘く爛れた要求に応える動きを取った。
――本当のところ、彼は尋ねてみたいと思っている。
だがしかし、決めているために問い尋ねることは出来ないのだ。かつて未分化のこどもを死の淵に追いやり、自身の処遇を覚悟して、けれど救われた上に愛すら差し出された。口は回るし手は出るし何より額の選定印の通り優秀であったこどもは酷くタナッセの神経を逆撫でしたはずだというのに、故に儀式を思い切れたというのに、彼はどうにも抜けていて向こう見ずで情が深くて莫迦正直で……莫迦正直にも程があって。守ろうと、気付けば自然に決めて――いや、思っていた。だから、出来ない。彼女が望んだのは慰めで、夢の中身の吐露ではないのだ。
タナッセは喘ぐ彼女の夜着の裾をたくしあげると太ももを外側から身体の中心へ、蜜の滴る中心へ指を進める。途中までは緩やかに、滴りの中を貫く時は一気に。軽く爪を引っかけるように中をかき混ぜれば、高く細い声が無防備に彼に絡みついた。“そんな嗜好”は持ち合わせていないと首振る彼女は、けれども軽い痛みに強く反応して、しかし厭うどころか頭の片隅で喜ぶ自分がいることをタナッセは自嘲する。
そうして冷えをあたたかさから熱へ高め、更に向こうの高みへと数度行ってしまえば、身体はくたくたで眠りは瞬く間に彼と彼女を覆う。夢も見ずに泥の眠りに沈めるだろう疲労と倦怠があった。それでも、いずれは、と強く思いながら、タナッセは眠りの淵に落ちていく。腕の中に収まる小柄な身体の頬には、確かに安堵の微笑が浮かんでいた。
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まだまだ十五歳、不安定な感じで。
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きれいな感情
仕事に区切りを付けたタナッセが歩いていると、風に揺れる木漏れ日の中、中性服をまとった女性が木の高みにいた。中性服は特別あつらえのものだ。まとう女性は当然ながら見覚えがある。領地に来てからだいぶ時間も経ちほぼ以前と同じ程度健康体になった、彼の妻である。木登りなど貴族のすることかそもそも危ない降りてこいと初めの時分は注意もしたのだが、どうにも危なげなく登っており――木の高みに腰掛ける彼女の横顔が穏やかに過ぎるせいで、なし崩しに認める行為となってしまった。
今日も、降りそそぐ細切れな陽光が彼女の頬を照らしている。声はかけずに去ろうとタナッセはきびすを返したが、行ってしまうのかと柔らかいなじりが空からかかった。振り向き見えたのは枝と幹とを器用に伝う小柄な細身。軽やかに地上に降り立った彼女は勢いを殺さぬまま彼に抱きつく。
急な仕掛けに支えきれず後方へ数度たたらを踏んで、全くこいつはとタナッセはとくとくと説教を始めるが、肝心の相手は笑い声を上げて聞きやしない。きちんと聞くよう、大人に言うような代物ではない言葉を説いた。しかし彼女は違うと首を振った。来て欲しいと思った時に来てくれたのが嬉しくてしょうがない、と今度はくぐもった声で笑んだ。
……急激に体温が上がったのは、抱きつかれた上顔などは彼の胸に埋めたまま熱い息で喋られたからだ、と内心思い、ただの偶然だろうと返す。冷たくも響きかねない言葉に、それでも妻は笑みを含んだまま同意をよこした。
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タイトルは新居昭乃の楽曲から。
主人公にも仕事は振り分けているが、
タナッセ受け持ちの半分程度とかいう妄想。
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ファレノプシス・アフロディテ
§
雲なく晴れ渡る空を一人の農民が歩いていた。
彼は美味な魚が捕れるという水場にぼんやりした面持ちで向かっている最中だったのだが、不意に口を尖らせると小走りに曲がるべき小径を過ぎる。
「こんなとこで鹿車とは珍しいなァ。どこから何しに来たんですよ」
声を掛けたのは鹿車の御者らしき若く美しい女性だ。どこまでも広がる自然の中、大きめの鹿車が一つ、道の端に寄って休んでいた。御者台には彼女ともう一人護衛役らしき男性が座って水を飲んで、周囲には二、三人の男女も佇んでいたのだが、御者が最も気さくに見えたから彼は第一声の相手に選んだ。しかし、護衛役や周囲の人間の視線が一挙に農民の彼に集まった。好奇心での尋ねを彼は後悔する。
だが、簡易な中性服の上にローブをまとった女性はそんな緊張ある空気を一向に気にかけない様子で微笑んだ。雰囲気通りの気軽な声音には馴染み深さと少しの品が同時に感じられ、もしかするとこの鹿車はそこそこに身分ある御仁が乗っているのかもしれないと、彼は少し尻込みした。
「一週間はかかる場所から、ここから更に先、ディットンを目的地にして。……長旅だからどうにもみんな気が立っていて。代表して僕が謝ります」
気安い口調に安堵を覚えて彼は丁寧口調も崩し、
「いやあ俺こそ悪かったわ、すまんね」
「いやあこっちこそ。……それで、まあ僕らが何しにディットンに行くかと言うとだけど、うん、」
釣られたのか彼女も更に口調を崩してそこまで言った。けれど、途中で区切って浮かべた笑みの種類は艶やかで、添えられた指先は真白く――彼の胸に初めて、自分が会話に選んだ女性は集団の中で極めて身分の高い、御者などではない存在じゃないかという予感が浮かんだ。彼女はフードに隠れた頭髪に指を差し入れる。そして、口調を変えて――あるいはこちらこそ本当の彼女の口調なのだろう――夢見るように告げた。
私は押しかけ女房をする気なんだ、と。
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胡蝶蘭の花言葉は良いものです。
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いつかは まみえる こんぺいとう
朝早くに雨は上がり暖かな陽射しが何もかもをくまなく照らすその日、しかし中庭の陰りがちな一角に肩を落として歩く若い衛士がいた。理由は至って単純だ。逢い引き相手に振られたのだ。それも、待ち合わせの鐘が鳴るよりだいぶ早く喜び勇んで足を運んだらば彼女が同僚と若気の至りを頑張っていて。
様々な色味を含んだ怒りの感情は、果たして彼女へ向けたものなのか同僚へ向けたものなのか、はたまた自身に対するものなのか。理解するより先に思考は感情に流された。乱反射する感情の爆発を意地で防ぎながらも足取りの不確かさは隠せないまま、彼は普段足を踏み入れない方向に進んでいく。見慣れぬ奥地だと気がついたのは、なんの加減か、彼の曇りがちな瞳へ強烈すぎる光が差し込んだからだった。
目が慣れると、光の出所が僅かに開けた場所だと分かる。中央には朽ち気味の噴水が蔦に巻き付かれ、それでも輝く水面を主張している。成程、あれが彼の目を射た原因だろう。だがしかし、何より彼の目を奪った光景があった。噴水の足元、陽光の眩しさを避けた場所。一人は眠り一人は膝を貸した、童話の挿絵を思わせる男女が一組揃っていた。噴水に遮られた陽光はなおも強く輝き二人の姿を縁取るようで、周囲が中途に朽ちていることがまた一層夢物語感を煽っている。
女の方は身動きの音で衛士の彼に気付いたらしく、眠る男に向けていた顔を上げた。すると紗幕のようだった前髪が額を滑り、
「…………!」
彼は息を呑んだ。一瞬覗けた額の中央には、神の徴、寵愛者の証が輝いていたからだ。彼女は、もう一人の寵愛者なのである。つまり、女の膝を借り衛士に頭を向けた男は、先代王リリアノの息子、タナッセ・ランテ=ヨアマキスということになる。何かにつけて細かく広がる噂は悪いものばかりな元王息殿下が、外で、下に幅広の布が広げてあるとはいえ土草の上で、他者の膝を借りて、眠っている。
――衛士の頭の中は先程までの混迷と挿絵のごとき現実と今判明した驚愕で、逆に落ち着いた。落ち着いたので、踵を返す。出歯亀は趣味ではない。会釈をして背を向けた彼に、微かだがよく通る高くも低くもない声音が投げかけられた。ありがとう、と一言だけ。
「――――」
若い衛士は反応に困り、しかし静けさを重んじたことへの例に対して反応を返すこともそもそも無粋だろうと城への歩を進めた。しばし歩いていくと、逢い引き相手の彼女が頬に手を当てながら彼に困り顔の笑みを向けて寄ってきて、
「いくら待っても来ないんだから。僕だって忙しいところ仕事を抜けて来たのに……まだ少しは時間があるもの、行こうよ」
腕を引っ張られたので腹の底から憤りを強い呼気として吐き出す。そして、そうして言いたいこと全てをなるべく冷静に重ねていって、結果として彼の頬には赤い平手がついた。だが、気分は今日の天気と同様になる。あの陰険王子でもあんな良い相手が出来るのだ、失恋の一つや二つどうというものでもないだろう。
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まだ白色のオルテンシア
土と、草の匂いがする。
花は咲いてるけど、あんまり分からない。
土は、ほこりの臭いをぎゅっときつくして、他のにおいも混ぜたらこうなんだろうなってからだ全部をつつむ匂い。
草は、野草のスープをお腹いっぱい食べたあと、げっぷしたらこんな風になるだろうってからだの中を満たす匂い。
僕は雑草を抜かれて上の方だけやわらかい土にしゃがんで、一緒に抜かれてしまった小さな花を見てる。
花の香りは、全部から隠れてた。
「おい、……おい起きろ、こんなところで眠るな」
花の代わりに届くのは、嗅ぎ慣れた心落ち着くお香。正確には、お香とそのひとの匂いが混じり合ったこの世に一つだけの、
「……あー…………うん?」
そこではっきり目が覚める。いつの間にか開いていた目は、心配に眉根を寄せたタナッセの姿を捉えていた。繊細さと華やかさを兼ね備えたリリアノ似の面立ちは存外睫毛が長く、私は手を伸ばして目元にそっと触れる。頬を撫でる。おい、と心配から困惑に響きを変えて彼は吐息した。私の右手を彼の左手が浅く掴んで、目覚めと同じ言葉を口にした。
「おき、……起きろ」
うんおはようもう起きてるけど。私は何を言ってるんだあなたはという口調で丸まっていた背を正し、空を見上げる。広がるのは木々の緑とその向こうの灰空、あるいは降る雫。顔を戻すと不満げなタナッセが雨よけに被っていたフードを肩に落として横に座り、私の手は離されてしまった。女性を選択した私より骨張って、しかし長い指先は、冷えた手には熱くすら感じられていたから、いっそう自分の冷えが気に掛かる。
「侍従が探していたぞ。……全く、全く莫迦かお前は。念のためと無駄足覚悟で来たというのに、何故本当に安穏と眠っているのだ。大人になったのだから慎みを持て、大体お前は女性を選んだのだから、そもそもの話として、人気のない場所は避けろと……王であるヴァイルならともかくだな、どんな浅慮を誰が起こすか……ああ、いい、いや、とにかく改めろ、帰るぞ」
口を挟まず黙って彼の声を耳の奥で響かせていたら、座ったばかりの彼はけれど言うなり立ち上がった。私は残念を覚える。雨の日だから彼が来ないかとここで待って、待ち疲れて眠って、夢を見て――あれは過去の夢だろうか。もしそうなら、立っても座っても異様に低い視点だったから相当小さい頃の記憶なのだろうが、とにかく、私は酷く寂しくなってしまった。タナッセがわざわざ探しに来てくれた今も、何か悄然とした気持ちが抜けない。……今よりもっと心配して――気にかけてもらえる、といった意味では彼が言いかけたようなことになってしまっても構わないだろうか、と血迷った考えがよぎる辺り、本当に落ち込みが強いのか。
雨が巻き上げる土の匂いと、水を受ける緑の匂い。彼の香りは全てにかき消され、離れてしまえば私には届かなかった。
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しろいろ、でも、はくしょく、でも。
1.告白する→玉砕&ゴタゴタ
2.誰ぞに浅慮を起こされる
→色んな意味でこども気分が抜けきらなかった当然の帰結
3.隠し持ったナイフで……→安定の反転コース
選択肢は三つ。
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口移しするシチダンカ
タナッセが去る足音が耳に届かなくなった頃、私は腰を抜かすように座り込んだ。
知識はある。知っている。
数秒前までここにいた彼の行為は、むしろ更に発展した行為すらも私は知っている。何しろ私が居た場所はお上品な城ではなくて小さな辺境の村で、子供と言えども小さな大人扱いというか、未分化が居ようと居まいと品のない話も当たり前にされていたからだ。いやまあ子供を作るアレコレは下品なのかという話ではなく、……なんというか、凄かった。直裁でない言語化は語彙的に難しいが、曲芸じみた楽しみ方の話とか、あるいはそういう嗜好の人間の話とかも耳に入ったし、正直に言うなら目撃しかけて即方向転換、という経験もあった。昼間で屋外など想像の埒外だった。
待て、違う。発展行為まで行くと脱線だ、今されたのはそんな過激なものではない。そうそんな。そんな――そんなに衝撃だったんだろう、私には。
触れたのは一瞬。ほんの刹那。かたい冷たい肩や背の感触とはまるで異なる、柔らかくあたたかな接触。村で見聞きしたアレコレに比べれば、なんてことはないはずの触れ合いなのに、私はどうしようもなくしゃがみ込んだまま立ち上がれない。というか、何故彼はあんなことを突然したのか。普段あれだけ厭味に口が回っているのだから今回だって口で言えば良かったんだ。それを口づけしたりして、あぁ今私何回口って考えたんだ。いやもう口とか考えたらいけない、あの一瞬を幾度もいくども繰り返して、力がどんどん抜けていく。辛うじて地下湖の出口を見ていた上半身が、とうとう丸まった。
全く、全くもう。
そういうことだと、信じていいんだろうか。
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理論や理屈はすっ飛ばし、
基礎もかっ飛ばし、応用編を知っている問題。
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てをふるあのこは きせきのあかし
朝目覚めると大抵彼女はまだ眠りを享受している。起きている時は怜悧な表情の印象が強いが、意識ない彼女はどうにも幼い。あどけないと形容してもいいほどだ。タナッセは二人分の体温にあてられてだろう、上気している彼女の頬を撫でる。あの時は……今でも思い返せば怖気しかもたらさない唾棄すべきあの儀式の時とは、まるで違う。かつて、彼女がまだ彼であった頃、非道をはたらいたその時のことだ。未分化らしく小さく細い身体を縛られた彼は、普段の強い眼差しも小憎たらしい言葉も封印して、諦めに瞳を閉じた。その時の、諦念の二字を当てるしかない大人びて醒めきった無表情はよく覚えている。
いや、とタナッセは内心首を振って考え直した。その記憶より前に、見たことがある。見覚えがある。今夢見る彼女と比べるにそぐう、意識もなくした彼の記憶が、ある。冷え切った彼を感じたのも、まず最初はそこではなかったか。地下湖に連れ出し、突き落としたあの日の――
「……、」
息を詰めた音が、隣の彼女の白いむき出しの首辺りで鳴らされる。次いで、一度浅く身を丸める動きを取るが、すぐに身体を足先までぴんと伸ばし、背も反らした。小動物のようだなと、タナッセはいつも思う。身体を伸ばしきると一気に力を抜き、タナッセを見上げながら微笑む。いつも通り、おはよう、と言う。起き抜けのかすれた、しかし甘えしか感じられない吐息の声に幸福を感じて同じ言葉を返した。そして続く言葉も慣れている。もう少しだけ眠っていたい、とまた目を閉じるのだ。普段であれば起床を促すところだが、今日は元々休息を取ると決めていたし、……昨夜は激しかったので、彼女の背に腕を回すことで答えとした。瞬く間に、穏やかな呼吸が胸の辺りで響き始めた。表情はほとんど見えないが、やはり再度の眠りでも愛らしい寝顔なのだろう。
そうして思考は過去へと戻る。
親切面して地下湖に連れ出したあの日、溺れる彼は途中で明らかに抵抗を止めた。力を抜いた。落ちるに任せた細身をモルに急ぎ引っ張り上げさせると、確かに水ではないものが閉じた目の端から一筋流れ落ちた。だが、それでも浮かぶ表情は子供らしからぬ色を帯びていたのだ。思わず肩を揺すって一度呼びかけてしまったのは、やはり憎しみに隠れて強い感情が育っていたのだと、そう思っている。ずぶ濡れの肩は当然冷え切っていた。
今ある肩に手をずらすと、もちろんあたたかい。あたたかいのだ。
寝顔は穢れを知らない幼子のようで、身体はあたたかく、瞳を開けばタナッセを真っ直ぐ見つめてはにかみに似た微笑を零す。至上の幸福と言わず、なんというべきか。彼女が知れば大袈裟だと慌て出すだろうが事実だ。そしてその奇跡は続いて行くのだと、彼は既に信じて疑っていない。
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「Phtonos」が友情育む愛情ルート話なら、
こっちは完全愛情ルート一直線話。
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離れて話して今では過去の
石の雨。お手軽だな、と思う。
落とし穴。無駄に手間暇割いているな、と思う。
二つが揃うと、さすがに面倒と嫌気が感情の全面に出てきてしまう。
更に水が降りそそげば、もう気力が全て削がれるようだった。手の空いた人間は父の正体を妄想し、捏造したよそ者の母の過去をなじり、私自身へは得体が知れないと嘲笑を投げかけた。
あぁそうだ、そんなこともあった。
全ての子供が参加していたわけではないが、当時の私は個々の区別をする余裕もまるで存在しなかったから、記憶の顔の目鼻立ちは不明瞭だ。
ひとまとめで、みんなきらいだな、と。城に来てすぐ、ぼんやり考えた。
……と、住んでいた村での境遇例の、まあ、ピンとキリのピン寄り中間地点を寝台の上で語ってみたら、タナッセが青い顔で眇になった。過去を問われたものだから試金石として簡略にまとめたのだが。えぐい話は更にえぐいため、私は今後キリの話だけを選ぼうと心に決める。皆が皆、こうも拗くれて酷い所業を行ってきたものじゃない。やはり一定数同情を向けてくる層というのもあった。村民の対応が一枚岩にならなかったのは、村長寄りと神殿寄りに別れたことが大きいように思う。下らない村八分といらない御慈悲万歳。まあ過去の話はもういいだろう。そもそもタナッセは何故村での扱いはどうだったか、なんて尋ねてきたのか。
問うとタナッセはどもりながら歯切れ悪く答える。過ごしてきた、育ってきた環境が異なりすぎるから知りたかった、と。母子家庭の苦労というのも身近にない経験で、物語を読んでもある程度の身分を持っており、私という前提を置くと身体性が薄く、結局本人に訊くのが一番だろうと考えたらしい。実際三年も前の話だ、痛む心はない。だが彼の方は、うんまあ予想通りだけれどもまた悩み出した。分かりやすさに小さく声を上げて笑う。
さて、仕方がない。今度はとっておきの想い出を話そうか。母との想い出。心の深くに仕舞ってあって普段は私自身取り出さずにいる、大切な。
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裏『夜露の想い出』
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