【 注 意 】
・タナッセ愛情B後
・堪えてばかりだったので堪え性は売り切れました

空見鳥





 たとえば、蜘蛛の巣。
 透明に近い繊細な白はレースに似た模様を描き出して、朝露に濡れれば美しさはいや増すけれど、糸は粘着性で、間違って絡め取られれば逃げられない。食べられて死ぬだけ。
 貴族たち、と大きく括った場合の印象は、彼女にとってはそういうものだ。話しているとどんどん気力が吸い取られていく。表面を取り繕えはするが、いつか巣に引っかかりそうでげんなり――いや、自身への欺瞞を剥げば、恐怖があった。
 後ろ盾はない。作らなければならない。妥当であり妥協も出来る相手、と考えかんがえ、探りさぐり、会話を盛り上げること。可能不可能を問われれば、出来るやれるするすべき、と即答だが、彼女、いや彼にはにはどうにも性に合わないのだった。仕事を押し付けられ目を回していた時分には一片とて思考になかったものの、農作業のほうが余程楽しいし向いていたと思う。
 だから彼、いや彼女は今、安堵を得ていた。
 後ろ盾、とは異なるが、近い立ち位置の、けれどそれより尊く有難いひとが隣にいてくれるから。
 いつも何か不満気な雰囲気漂う面持ち――最近は時折その眉間に籠もった力を緩めることもあるが――のそのひと、タナッセは、彼女が目だけで見上げると少し頬を染める。意図ない視線だったのにと彼女もまた頬に熱を覚えた。何しろ二人は露台ではなく壁際で休んでいて、周りには件の身分を持つ者たちが大勢いるのだ。背や腰、あるいは肩に手を回し回される以上はさすがに。
 だが視線を交わらせるだけでも十全に幸福だった。
 あの日、彼は言ってくれた。二度とあんな目に遭わないようにする、と。
 正直なところ。政務を手伝っていないなどの噂は、付随する感想は尾ひれの類であるにしろ事実だろうから、彼女は話半分程度でいた。そんなに罪悪感が強いかという苦笑も浮かんだし、一人で肩肘張るよりずっと楽でいられると思えば同時に喜びも満ち、なのに実際覚悟していた面倒は起きずにいる。特に好きだった分野の、より専門的な知識に。あるいは新しい分野に打ち込む毎日だ。もたらしたのが誰であるか、分からないとは言わない。
 むず痒さを覚えるぐらいの扱いだ。
 今日も当然の顔で、照れやどもりもなくタナッセは言った。
 部屋を訪ねてきた彼は、同伴を申し出彼女の今夜の衣装の確認を取ると、時間になったら迎えに来ると帰って行って――本当に来て。
 同じような言葉を言われたのは、その時だ。
 母上も言っていたが野に放つ以前にここが野も同然だな、とぼやいたあと、
「……だから、そのつまり。莫迦、が必要以上に寄らないようにする。私から離れるな。いいな」
 ずっと一緒では関係を疑われるのではと彼女はまず考えた。まだ明言している話ではないのに構わないのかと。けれど、遥かに長く城で暮らしてきたタナッセなら想定済みのはずで、だから感じた嬉しさのまま、はにかんで二度肯いた。
 久々の舞踏会、成人した姿のお披露目。
 のみでも存分に注目を浴びるというのに、なおかつ一時期の険悪さなど空想であったように寄り添い合う彼女とタナッセは、またとない餌である。早々に囲まれてしまう。しかし、彼女は常より随分と穏やかな心地で応答をこなしていけた。居てくれるだけで有難い彼は、どころか勘を取り戻せず時折舌の回転が怪しくなる彼女を支えてくれる。
 とはいえ、面倒をかけての申し訳なさは強くあった。故に、今は壁の花だ。
 主要な貴族とは歓談も済んでおり、篭り明け間もない身。帰ったとしても口さがなく語るのは一際捻くれた輩ぐらいではあったものの、二人でいる。いや、二人でまだ居たいがために、彼女は帰らない。
 最近の彼は忙しそうで案外共にあれないし、邪魔はしたくないし、でも恋人めいた何かしらを望んでしまうし、普段の彼は概ね羞恥でしどろもどろだし。
 そんな彼女の色々な兼ね合いの結果が、「せめて今夜、舞踏会の終了までは隣に居たい」だった。
 広間の端に二人並び、タナッセの腕が背に回されている。小さな声で、日々の発見や好きな本の話……他愛ない話を交わし合う。それが、いっそ全身を委ね抱き締められたい程の幸福で、会話の脈絡もなく、彼女は身を摺り寄せた。正確には、頭を彼の肩に擦りつける動きをした。
「ど、動物かお前はっ。しかも笑うなそんな顔で! 第一誰ぞに見られていたら……」
 飽くまで小声である。
 今はもう本当の婚約者同士なのだからと思ったのだけれど、迷惑だったか、と眉尻が下がる感覚とともに彼女は離れようとして、しかし、
「あ……いや、すまない。確かに噂として既に私達の関係は広まっているし、事実ではあるがまだ公表しはしてなどない訳で……」
 とタナッセは回していた腕の力を込めて押し留めながら続けた。「あぁ、私は本当にお前に相応しくない人間だな。そう、そのな、そのだな、恥ずかしい、から人前であまりじゃれつくな。つかないで欲しい」
 視線を彷徨わせながらようよう言い終えた体の彼は肩を落とす。彼女が反省して肯くより少し早く、ほとんど吐息だけで囁く。それに、と。
「――――それに、我慢出来なくなるだろうが」
 自身の喉が勝手におかしな音の羅列を漏らすのを、彼女は頭のどこかで聞いていた。
 引き止めのためタナッセの意思で半歩にもみたない距離を近付き、自然片耳が上向いていた姿勢での、意図しないものであるが、囁き。普段愛情を分かりやすい形で、たとえば言葉としては提示してこない彼の、珍しい囁き。
 何を想うより早く、頬どころか頭の天辺から足の先までに熱を覚える。
 我慢。
 何を。誰に。
 自明の理であるはずの後者すら、沸騰しかけた頭では一向に判然としない。理解しているからこそ沸騰して、今や判然としない。
 落ち着かないと、落ち着こう、と彼女は急いで深呼吸を始めるが、焦りすぎて息を乱しているようにはタナッセには感じ取れなかったらしい。先の名残を残した声色で彼女の名前を呼び、
「やはり今夜は休むべき、違うな、休ませるべきだったな……。あぁ、もう最低限の用事は済ませたろう? 全く、熱が出たならそうと言え。帰るぞ。村で不調には慣れているから私が言うように急に倒れたりしない、なぞ言っておいて……」
 違う、と声の下から否定した。あなたがとんでもないことを言うからだ、だから――とそこまで言って彼女は先の言葉に惑った。迷い、考え、端的に表現することにする。
 すなわち。
 興奮してしまった。
 と。
「こ!」
 短い叫びののち、今度はタナッセが頬に熱を集め、彼女に回してある腕も火照り始める。しばしあって深呼吸が数度行われた。半眼の彼女を放って最後に一度、大きく嘆息。
「つつ、そう、あぁそうだな、つまり、平気なんだな。あぁ、あぁそうだな、気分が上向きなのは良いことだ」
 だいぶんずれた肯きは、それからようやくだった。
 口を引き結んだ呆れ気味の半目を向けていた彼女は、思わず笑みを零してしまう。地下湖で何も喋っていないのに黙れと連呼された時といい、どうにも彼はその手の話に弱い。
 そんな彼が魔術師と組んだ理由を、だから彼女は色々思い巡らせる。ただの妬心に終始しているのか疑問して。近しい人たち――母親や従弟だとか――のためだろうか、など考えることは、多い。
 ただ、最後にはたった一つに辿り着く。
 彼という存在のありがたさ。
 婚約の取引をぶら下げられた時、彼女はそれこそどんな蜘蛛の糸を張り巡らせているものかと身構えたが――物事はどう転ぶか、まるで見当が付かない。
 もし本当に気になるのなら問うてしまえばいいだろう。おそらくタナッセはその負い目から答えてくれるに違いない。どんな思いを抱きながら行為に及んだか。彼が自身の裡に秘め続けることを苦痛に感じている様子ならば、いっそ暴くことも選択肢。
 しないのは、現状さほど意味を感じないためである。
 彼女は回された彼の手に自身の手指をそっと重ねた。
 あなたと共にあれれば、私はいつだって上機嫌だ。おそらく今後喧嘩をしてさえも。言葉を交わすたび、喧嘩であっても理解を深められると、あなたなら信じられるのだから。タナッセも、そうであると嬉しいのだけれど。
 告げると彼女を支える腕は、一度大仰な痙攣をした。空いた方の手で顔を押さえ、タナッセはまともに繋がらない言葉を口にする。
 信じるなぞ。私の言葉は。居るだけでとは。
 辛うじて聞き取れたのはその三文のみ。
 そのあとはまた、沈黙。
 今度は微動だにしない静かが二人の間でだけ、流れる。
 断ち切ったのは不意の一歩。タナッセが突如歩き出したのだ。当然彼女も付き合う羽目になるが、理由を問うても彼は肩を怒らせたまま露台の人目の死角に来るまで無言を貫いた。
 こんな目立つことをしていいのか、と尋ねようと彼女は顔を上向かせる。
 よく顔を見て真意を探ろうと踵を上げる。
 しかし、唇を塞ぐ柔らかが、腰に回った腕で彼の胸板に押しつけてくる動きが先だった。驚きから顔を逸らしかけるも、すぐに後頭部へてのひらが宛がわれてしまう。
 もう逃れて疑問することはかなわない。
 触れているだけなのに口付けはは熱い。
 半ば爪先立ちのまま、頭部を上向きに固定された彼女の小さな背はタナッセに預けきるしかない。
 きっと今頃大広間ではそこかしこで彼女たちについて取り沙汰されている。もう一人の寵愛者に付きっきりの元王子、の一点でも十二分に餌だったというのに、荒っぽい足取りでここまで来ては――どう面白おかしく会話が弾んでいるか、想像は容易だ。
 協定があった、とタナッセは彼女に漏らした。寵愛者の成人まで誰も婚姻については触れないことと、先代国王からお達しがあったのだと。率先して破ったのがよりによって先代の息子など避けたいことと、当分は婚約関係はなくただの恋人同士という建前でいたい、と彼が言った。
 だから駄目だとなんども言おうと試みて――そのたび、彼の拘束は強まるばかり。
 背にタナッセの、男らしく骨張った、けれども繊細な指が這う。
 頭を支える五指は、後頭部とうなじを行き来する。
 触れ合うだけだった唇はぴったり重ね合わされて、次第に啄む動きが混じり出す。
 大広間の喧噪など最早些事と、彼女は婚約者のらしからぬ強引な愛情表現に耽溺する。
 ついに彼女の口腔はまさぐられ始めた。
 熱く濡れた舌の感触に陶酔しながら、内心独りごちる。
 今、大広間に陣取る蜘蛛の貴族達には食べられなかったけれど。
 タナッセは私を“食”わずに逃がしてくれたけれど。
 けれども、やっぱり私はこのひとに捕まって、思う存分食べられてしまうのだ、と。










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タイトルは蝶の異名が「夢見鳥」なのですがもう使ったのでタナッセの髪色で。

「雨の日の遭遇」愛情版や試合応援愛情版で甘やかすタナッセって萌えると思います。

ちなみに出てきてさっさと婚約だけ公表しても、
逆にしなくても、それぞれ美味しいと思います。